「彼らは木と紙の家に住んで、黒い紙を食べる」とは幕末に駐留したアメリカ人が日本の様子を本国に紹介した言葉である。ある国の小学校の教科書には最近でも、日本人が黒い紙を食べると書いてあるという。黒い紙とは海苔のことだ。
日本人にとって、食用としての海苔の起源は有史以前にさかのぼる。縄文弥生の遺跡からはワカメ、ヒジキ、ホンダワラ、アラメなどの海藻類が発見されており、おそらく海苔もその頃から食べられていたのではないかと思われている。古い記述では『常陸国風土記』に日本武尊(やまとたけるのみこと)が霞ヶ浦近くの浜辺で海苔が干してある光景に心を引かれ、この地を能里波麻(のりはま)と名づけたとある。
大和言葉では海藻類に「め」「も(または「もは」)」「のり」などの語尾がつけられた。大きなものは若布(わかめ)、滑海藻(あらめ)、凝海藻(こるもは=テングサ)、小さなものが「のり」で「苔」や「菜」の字があてられた。ぬめりを意味する「ぬら」が転じたと考えられている。「のり」が現在の海苔だけを指すようになったのは意外に新しく、江戸時代以降のことという。それまでは「紫菜(むらさきのり)」と呼んで、他の「のり」と区別されていた。
大宝律令に定められた税「租・庸・調」のひとつ、「調」は絹などの繊維製品を基本としたが、地方特産物による代納も認められ、そこに指定された8種類の海藻のなかに「紫菜」が含まれていた。貢納される単位で比べると海苔がもっとも小さく、絹や綿の量と比較しても当時いかに貴重であったかがうかがえる。平安時代になっても海苔の価値は高く、五位以上の貴族に限って支給された。貴族が食したのは干し海苔か生海苔で、とくに生のものは神仙菜(あまのり)として珍重された。「神仙」には不老長寿の意味がある。ちなみに全のリ漁連では大宝律令の施行日(大宝2年1月1日)を西暦に換算して2月6日を「海苔の日」と定めている。
海苔が黒い紙、すなわち現在のような薄い板状の「抄き海苔」として食べられるようになったのは江戸時代前期のこと。浅草で行なわれていた紙すきの製法に習ったもので、それが「浅草海苔」の呼称の起源というが、いくつかの異説もある。
さて、かつては黒い紙のようだと馬鹿にした欧米人だったが、近頃流行のヘルシー志向とかで、海苔を食べるようになったという。アボガドやカニ蒲と寿司飯を海苔で巻いたカリフォルニアロールが有名だ。彼らに海苔の風味がわかるのか、その辺がいささか疑問であり、寿司としては邪道だという人もあろう。だが、日本の回転寿司でもマヨ・コーンの軍艦巻き、トンカツやハンバーグの握りまで出される時代なのだ。
最後に寿司職人から聞いた豆知識。海苔を焼くときは1枚ずつよりも、2枚重ねて焙ったほうがよいらしい。1枚だと逃げてしまう芳香が、2枚重ねることで互いの香気を吸収し合い、せっかくの風味を損なわないそうだ。
室町初期の応安年間(1368〜1375)に、中国から九州博多へある人物が亡命した。彼の名は陳宗敬。明に滅ぼされた元王朝で礼部員外郎という官職についていた。明の建国によって中国は240年ぶりに異民族の支配から脱し、漢民族の統一国家として復活することになったのだが、なぜか漢民族の官吏の中には元朝に忠誠を尽くす者が多くいて、元に殉じて処刑されていった官吏も少なくなかった。おそらくは陳宗敬はそんな一人だったのだろう。ただし彼は殉死よりも亡命を選んだ。そして賢明にも、あのフビライでさえも征服し得なかった神風の国、日本へ逃げ込んだのだ。
彼は博多で医薬の輸入にかかわりつつ、その一方で医業をはじめる。その腕は確かだったようだが、硬骨漢と見えて、将軍足利義満から京都に招かれたにもかかわらず、博多を動かなかった。
それでも子の宗奇の代になって、ようやく京都に移り、義満から「医道抜群」と賞賛されている。室町幕府のお抱え医師のような立場だったのかもしれない。もとの官職名「外郎(ういろう)」から通称を外郎家または陳外郎といった。外郎家には代々伝わる透頂香という秘薬があった。消化器疾患の薬だが、仁丹のような成分で、口中に含むと清涼感があるという。冠や烏帽子の中に入れ、頭髪の臭気を防ぐためにも用いられた。この薬もまた通称を外郎といった。世間では「薬九層倍(くすりくそうばい)」と、薬は暴利をむさぼる代表のように言われている。外郎家もこの秘薬のおかげで相当に潤ったことだろう。
だが、そんな栄華は長く続かなかった。やがて室町幕府の力が衰えて戦国乱世になると、庇護者を求めて子孫は各地に散らばった。そんな分家のひとつで宇野藤右衛門なる者が小田原の北条氏に仕え、当主の氏綱にこの薬を献上したことから、万能薬として知られるようになり、江戸時代には小田原宿の名物にもなっていた。
ところで我々が知っている外郎は薬ではなく、米や麦などの粉に砂糖などを加えて蒸した、甘くてねっとりとしたお菓子の外郎だ。名古屋をはじめ、小田原、伊勢、京都、山口など、お菓子の外郎を名物にしている土地が全国に分散している。これは外郎家が各地に散らばった事と何か関係があるのだろうか。
なぜ薬の外郎がお菓子に化けてしまったのか。「医道抜群」の陳宗奇がお菓子の方も発明したのだという説があるが、本当のところはわかっていない。「薬九層倍」なのに、わざわざ儲けの薄い菓子を作る理由が見当たらない。薬とお菓子に同じ名前が使われていることについても、ある場所では土地の菓子屋が外郎家から製法を伝授されたからだといい、ある場所では単にお菓子の色が透頂香に似ているからだという。外郎とはかくも深く歴史と関わりながら、なお多くの謎をはらんだお菓子なのである。